フィールドとアーカイブ

―社会理論と経験的社会研究
タルコット・パーソンズ後 50 年
あるいは、ある大学教員人生

25.私立大学教員
 1985年助手、当時は法律も大学規則も教員の職位のひとつで、給与も今よりよかった。実際、私の前々任者までは任期もなかったし、政治経済学部、法学部などでは、助手の間に、助手の給与をいただきながら留学もできた。それが、3年任期制となり、今は2年となった。たいへん幸運にも2年で専任講師となった。


 しかし名称とは違い、講師の専任ではなく、さまざまな業務が溢れていたという点では、助手の延長であったのかもしれない。3年経て助教授に、さらに5年経て、1995年教授となった。


 助手にしていただき、源泉徴収される給与をもらうようになって、最初にしたことは、パソコンPC−9801Vm2とプリンターPC-PR201H、さらにワープロソフト一太郎を、桜台の狭いアパートの一室に買い入れた。それは、今考えても高価だが、全部併せて80万円近くかかった。パソコンが、たいへん高価な時代だったということかもしれない。


 助手となった時、大学の仕事場は、32号館101という書庫併置の部屋に先輩助手浦野正樹先生(早稲田大学名誉教授)と同室。


 ここでの忘れ得ぬ出来事は、1984年7月、その室の上階にあるトイレが壊れ、汚水が大量に降ってきて浸水したことである。大量の書籍を避難させるのは体力技であった。


 さらに、夏休み、汚染された大量の書籍を、本部図書館の燻蒸炉に運び、またもとに戻すために軽トラックで往復する日々に見舞われた。「助手」は、「助けてー」と読むのだと教えられ、ソシオロジーではなく、スカトロジーだなと笑われる始末であった。


 教授と言っても、ドイツ語圏の制度のように、博士号取得の上 、Habilitationを認められ教授となるのとは違い、余程のことがない限り、みんな教授になるのが日本の、とりわけ私立大学教員であり、それが大学の「民主主義」だと勘違いしている人も少なくない。


 助手から専任講師にしていただき、旧33号館4階の研究室に移った。しかし、ある教授先生と同室。形式的には「同室」だが、私は、8時20分開始の1限、18時開始、21時終了の6、7限、そして土曜日に授業ということに自然となり、顔を合わせないようになっていた。


 たまたま用事があって入る際は、自室のはずだが、深呼吸をして意を決して入ることになる。教授先生、そして序列ある門下生多数のまなざしを感じながら「すみません」と言いつつ出入りする世界であった。徒弟制、身分制であると改めて感じる時であった。


 個室となったのは、1993年であり、そこにエアコンが設置されたのは、1998年だった。学生時代は、図書館のみ空調があったが、総長室も扇風機。教室の空調化が始まるのは、1990年代からだった。


 研究室よりも、業務作業のため、どこかへという時代だった。授業、研究が仕事だろうが、それ以外に膨大な仕事があり、若かったのと、器用であったので、その種の仕事が多々あった。


 野球早慶戦、ラグビー早明戦あとの歌舞伎町見回り、ミルクホールや0番教室、旧第一、第二学生会館、3、8、9号館地下部室撤去など、普通の大学教員がする以外の業務に従事した。


 手当が支給される入試出題に当たったことは41年で1度。採点は10度ほどか。通常業務に含まれる大きな教室での入試監督は、ずっとやってきた。


 数年前だが、卒業前、ある学生からメール。「4年前、入学試験のとき、私はたいへん緊張していましたが、監督をされていた先生が冗談を言って、教室中が笑いに包まれ、それで固さが取れて、憧れの早稲田大学に合格できました。有難うございました」と。若い人たちが喜べばそれは素晴らしい。


 教員組合書記次長、中央委員会議長を務めたこともあるが、これは労働環境改善に必要な仕事だった。わずかな日給が出たが、すべて積み立てて、任期終了後の慰安旅行費用となった。


 1996年から98年まで、学生担当教務主任、2004年から6年まで教務担当教務主任を務めた。これは、さすがに役職手当が、月22,000円付いた。ただし、前者はミルクホール正常化など、また後者は文化構想学部、新・文学部開設準備など、通常外の大きな業務に従事せねばならず、労働に見合った手当ではなかったと思う。


 文学学術院は、第一、第二文学部の時代より、学部長はじめ役職者は2年任期退任が慣行。他の学部の2期4年慣行とは違っている。それらに淡白であるのかもしれないし、またキャビネットの仕事は、教授会内に選出された各種委員会での決定の履行であり、長やキャビネットのリーダーシップが前面には出ない、日本的政治風土の中にある。


 民主政が研究主題のひとつでもあり、そんな政治風土に抗して、2016年、学術院長選挙にひとり立候補した。得票数30で落選した。推薦人が一定数名乗り出て、その人たちに推されて、言い換えれば、選挙をする前から、裏で決まっている、まさに日本的政治風土そのもの。これは、好きになれない慣行であった。


 役に立つことをしたとしたら、大学年金委員会という、総長、理事会の下にある委員を20年務めたことか。


 バブル崩壊後、低金利時代が始まり、それまで信託銀行預金に置いておけば、年4パーセントから付いた金利がなくなり、素人投資の典型で、コンサルタントに従いアクティブ運用にかかわるが、ネットバブル崩壊で損失。コンサルタントが止めるにもかかわらず、慌ててしまい、現金化して損失だけ確定する事故があり、給付減額という事件があった。


 その直後から、この委員会に加わり、20年、基金は2倍以上に成長していった。今後、どうなるかはわからないが。


 もうひとつ、健康保険組合の理事長も務めた。高齢化社会との関係で、日本の組合健保の将来が難しい時代。定型業務だが、厚労省との関係での業務で、監査されたり、監査したりなど、普通では遭遇しないことを多々経験した。企業の健康保険組合では、多額の手当報酬があるが、早稲田大学健康保険組合は無給無手当であり、ボランタリズムの実践に他ならなかった。


 助手を含め教員ということでは、早稲田大学第一、第二文学部、文化構想学部で41年、教育学部で半年、東京大学(1992、1999年)、東京都立大学(1996年)、東北大学(2001年)、大阪大学(2001年)で非常勤講師をさせていただいたが、早稲田大学戸山キャンパスが、仕事のほとんどの場であった。


 ただし、面白いことに、教育学部で学んだからか、いつも他所にやってきたという感覚があり続けた。実際、同年代の同僚は、圧倒的に第一文学部出身者が多いということもあるのだろう。


 それが悪いことだとは思ったことはないが、身内・内部選考の時代が終わり、言うところの公募制度で人材を集めると言いつつも、どれくらい公正で客観的評価が可能なのかについては、少なからず疑問もある。


 結果、たしかに早稲田出身者という履歴が薄くなっていくかもしれぬが、出身校が同じであればあるほど仲が悪いということもあるし、出身校が違うが、しっかりつながっている人たちも少なくないのが、大学教員のコネ世界でもある。


 もうひとつ、奇異な経験を挙げると、日本社会学会大会の開催事務を、1988年、第61回大会では、数十ある部会の教室配置と進行管理、そして2015年、第88回大会では大会参加費の計算管理と、二度にわたって運営の実務労働を経験したことだろう。


 在職中、繰り返してというのは、たぶん珍しいと思うが、現場作業者として従事した。夜更け帰宅、早朝出勤、当日はホテル宿泊も自前、懇親会費をたてまえ上、支払うも、作業で出席できないという、何ともと思う気配り。

 

 


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◇「消えゆく前に ―ウィーンの森の物語」から◇

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