フィールドとアーカイブ

―社会理論と経験的社会研究
タルコット・パーソンズ後 50 年
あるいは、ある大学教員人生

26.高校時代をふりかえって思うこと
 私は、1975年早稲田大学教育学部社会科学専修に入学した。失礼ながら第一志望ではなく不本意であった。ただし、一浪をしており、贅沢な我が儘でしかないが、またたいした能力もなく、他の選択肢もないということで入学した。そういう点では、けっして褒められた入学ではなかったが、早稲田大学がたくさんの出会いを提供してくれた。


 大阪で生まれ、3歳のとき、西宮、門戸厄神にできた父が勤める会社の社宅へ。小学校4年生のとき、祖父母と同居するということで芦屋へ、芦屋から門戸厄神にある小学校へ阪神、阪急電車を使っての越境遠距離通学、しかし5年生のとき父の栄転で東京品川区大井町へ。


 中学2年のとき大井町の社宅がビルに建て替えとなり、大田区雪が谷へ転居、1年通った品川区の中学校へ、東急池上線、田園都市線(現・大井町線)を使っての越境遠距離通学。


 中学校3年8月、父の栄転で名古屋千種区へ。東京都の高校受験科目は3科目、愛知県は5科目で蒼くなった。何が何かわからず、愛知県立昭和高校に入学した。いわゆる一流校、御三家、名門校などという世界とは違い、おそらくそういう学歴ニッポン社会への勘違いが、私にもどこかにあるはずだ。


 しかし現実は厳しく、高校3年秋に、借りていた社宅建て替えで、千種区から東区に転居。父は、会社が近くなり便利だっただろうが、私は東区から瑞穂区まで、ほんの短い期間だったが、通うことになった。


 陸上部を大いにやったわけではなかったし、勉学ももともと能力もないのもあるが、それも大いにやったわけではなく、当時は「ひとなみ」と読んだ一浪をして河合塾千種校へ通った。


 が、また同じことの繰り返しで、その夏、父はさらに栄転して大阪本社へ戻ることになり、私は瑞穂区瑞穂通りにアパートを借りてのひとり住まいとなった。


 早稲田大学に入って、私と同様に下宿して浪人という人がいたのを知り、私だけではないのかと知ったこともあるが、当時は、なかなか辛かった。


 スポーツについても学業についても、とくに秀でたものはなかったが、その後につながっているとしたら、高校1年生のとき、難しいで有名な先生の「地理」。


 最初の中間試験で、たいして勉強をした覚えもなく、また答案を返される日も、陸上の試合で公欠だったが、先生が「森はどこにいる」と探していたぞと、翌日、クラスメートたちに言われ、職員室に行った。


 毎年、平均点は50点以下の試験だが、「すごいな、90点を超えたのは、過去にもない」と褒められた。


 「地理B」で受験をする生徒が少なかったからなのだろう。受験詰め込み授業ではなく、1学期は難問試験、2学期、3学期はチームでの報告発表議論という授業スタイルだった。


 たまたま私の属したチームで取り上げたのが、「パレスチナ問題」と「東ヨーロッパ」であった。そして当時、NHKで「特派員報告」という番組があり、たぶん毎週、観ていた。


 どちらかと言えば、生物、化学、物理を好んではいたが、大学で、こういうことが学べれば、あるいは特派員のような仕事ができるにはと考えていたことがあった。それが、社会科学への関心の起点であったのだろう。


 早稲田大学教育学部社会科学専修に入学して、クラス担任は赴任間もない大西健夫先生(経済史)で、この人はゲッチンゲン大学で博士号を取得し、早稲田のと併せてドッペル・ドクターて戻ってきたばかりであった。その若さに驚いた。


 しかし、何よりも、3年生のときに、講義「社会学研究」で丹下先生と出会ったことが、大学教員への道につながっている。


 結果、「特派員」「新聞」、ジャーナリストという、おそらく当時の早稲田大学の学生の多数が抱いていた就職希望選択肢は、私の場合、消えていくことになった。そもそも社会とは何かという、根本的な問いに向いていったのであろう。ただし、海外、とりわけ欧米への関心が強くあり続けた。


 「特派員報告」もそうだが、中学生の頃から外国映画を、悪友と、あるいはひとりよく観に行ったというのもあったかもしれぬが、高校時代、ふたり格別の友と出会ったことが、決定的だったと思っている。


 高校1年生、2学期が始まるとき、カナダから帰国子女が転校してきた。お父さんが駐在していた関係だが、小学校高学年から高校1年生まで過ごしたゆえにだが、ネイティブであった。


 英語の時間、先生が彼女に敢えて読ませた。まさに洋画で見聞きする発音であり、私たちとも、先生ともまったく違うことに驚いた。


 親しくなって、名古屋、今池の映画館で『嵐が丘』を観た。私の初デートでもあったが、字幕を追ってもそこそこしかわからない私に対して、彼女はイギリスの英語で少しわからないところがあったと言い、そんなものかと唖然と聞きながら、かつ私もそういうことが言えるくらい英語が上手にならないかと願った。


 もうひとり、3年生のとき、バスケットボール部にいるのは知っていた人と席が近くなり、にわかに親しくなった。運動部のつながりで前から知っていたのだが、この人、すごい英語ができるなと感心した。彼女は、帰国子女ではない、普通の高校生。


 しかし、どうしてそんなにできるのかに驚いた。彼女は、地元の大学を出て、アメリカに留学し、東京大学大学院を経て、一時、同時通訳者をし、さる大学で教授、学長補佐までなっていった。


 このおふたりとの出会いがなかったら、18歳人口大学進学率30パーセントほどであった時代、普通の高校生から、偶然が重なって早稲田大学へ進んだひとりのままであっただろう。


 しかし、英語も、ドイツ語も精進することなく、この年齢まで来てしまったが、何かやり遂げようという思いがあり続けたとしたら、このおふたりとの出会いが決定的であったのかもしれない。


 おふたりには、大学へ進み東京で生活するようになり、それぞれに仕事を持ち、家庭を持つようになってからも、今に至るまで刺激を頂いている。


 私とは、もともとの才能の違いは大いに感じるが、私の場合、とにかく質は量が決めるということであり、パーソンズ後、50年、シュッツ、ハーバマス、ルーマン、新しい社会運動、民主政、ポピュリズム、ウィーンをただひたすら追っていくことができたとしたら、おふたりのキラリと光る才能に魅せられた、そんな魂があったのかもしれないと思っている。


 有難うございます。心から感謝をしています。

 

 


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◇「消えゆく前に ―ウィーンの森の物語」から◇

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