―社会理論と経験的社会研究
タルコット・パーソンズ後 50 年
あるいは、ある大学教員人生
23.認識批判と分析理論
そうした永年の問いは、2024年10月、東京のドイツ日本研究所で開催された第17回ドイツ・日本社会科学会での報告“Feudalization of Re-Feudalization -Where is ‘Modernity’ in Japan?”となった。
その前回、2022年上智大学での報告は、かつてジョイント・セミナーでご一緒したツェルナー先生の著作『真理効果と論争 ―〈従軍慰安婦〉とその像』(Reinhart Zöllner, Wahrheitseffekte und Widerstreit -Die „Trostfrauen“ und ihre Denkmäler, Indicum Verlag München 2021)についての書評であった。
戦時性暴力、そして「従軍慰安婦」をめぐる日本、韓国での政治的議論とその混迷をめぐって、討議を形式的には行うが、歴史が没歴史的となり、批判応酬の内戦状態、無視となるのは、どこに原因があるのかについての分析であった。
ツェルナー先生の結論は、討議はするものの、「語り」が、西洋、キリスト教文明においては、本来持ち得た普遍的愛へのベクトルを、日本的議論においては欠いており、「語る」主体の顕示に帰属させてしまい、合意、一致となるべきことが、対立、反目、そして妥協になってしまう問題を、リオタールを引きながら論証したところにあった。
これは、まさしく欧米の日本学による日本分析の成果であり、1978年、ヴェスさん、リンクホーファーさんとの出会い以来、問うてきた「日本学とは何か」への、私の到達点であったのかも知れない。
社会研究、歴史研究と称して調査し報告し論文にするも、その「語り」は、出来事の普遍性、とりわけ人類愛という普遍に帰着せず、誰が語ったかに集中し、学も個別主義、研究者の好嫌に帰着し、真理追求が忘れ去られてしまい、政府公式見解獲得要求として政治化していくことになる日本的特質であろう。
こういう論点を踏まえて、第17回大会で、「再封建化の封建化」として、そもそも日本の民主政、議論には理念、理想、理論、思想がなく、あるのは妥協、コネクション、カネ。これらが基本媒体であり続けてきたこと。その原因は、遡れば1920年代来、克服されない寄生地主、戦争成金に帰着する世襲政治の継続にあると考えた。
学問も、認識の客観性よりも、政府公式見解のお墨付きが重要となってしまい、歴史家が没歴史的、社会学者が没社会的であるようになってしまう問題が残り続ける。
真理性は、ハーバマスと真理の合意説、フッサール、シュッツの真理の明証説として、駆け出し論文から、『ヴェーバー後、百年』まで扱ってきたテーマでもあったが、解決の道は、おそらくキリスト教文化を欠く日本においては、「自然的態度のエポケー」という、シュッツが示していた思想呈示のポジションを学びとることであろうと思っている。
キリスト教文明を欠くとしても、「デカルト的省察」を実践することは可能なはずであろう。思想、理念、理論は、語る主体自身の利害関心から自由になれると考えることができると思ってきた。
だが、社会的世界が、peer-to-peerとともに変化し、人(person)が、人間、法人を超え、AI、アンドロイド、サイボーグと共にありうる世界となりつつある。
理性、知性、感性とともにある思想、理念、理論が、これまでのままだありうるかについて、私は、とりわけ日本において、楽観的にはなれない思いがある。
これに続き、2025年4月、心の思い出の地ウィーンにて開催された国際シュッツ会議で、“VOCALOID and Re-Incarnation -Multiple Transformations of Multiple Realities”と題して、AIが、人間世界を変えていき、多元的現実が変容しつつあることを、シュッツの、1932年の社会的世界論との関係、また1936-7年の草稿にある「人(person)」とは、どのように現れ出るかに立ち返り論じた。「個人が社会を作る」「社会は個人の集まりである」という素朴無垢な前提を捨て去るべしという主張でもあった。
人間ではないアンドロイドが、歌い語る時、何が明示、暗示されているのか。人間ではないアンドロイドが、理念、理想、理論を提示することもあるのだろうか。
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