フィールドとアーカイブ

―社会理論と経験的社会研究
タルコット・パーソンズ後 50 年
あるいは、ある大学教員人生

 

7.ユルゲン・ハーバマスと社会調査
 1981年3月帰国し、最初にやったことは、アルバイトを探すことであった。たくさん面接を受け、最後に高輪と白金にあった「清風塾」の講師に採用された。藤春清塾長は、私のようにけっして受験勉強ができたわけでもない者を破格の待遇(月68,000から90,000円)で雇ってくださった。


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 ここからの収入と、理工学部の加藤諦三先生のティーチング・アシスタント(月22,000円)、「一橋ゼミナール」というやはり学習塾、西武池袋線、江古田、中村橋、清瀬にあった教室をかけもちで(月40,000円)、それと優しい父母からの援助で、やっていくことができた。当時の早稲田大学の学部、大学院の授業料は、年間20万円ほどであった。


 博士課程に入学してからは、日本証券奨学財団の給付奨学金(3年間、月60,000円)をいただくことができるようになり、アルバイトを減らすことができ、それも嬉しかった。

 1985年定職を得て、この奨学金同窓生の会の幹事、地区幹事、さらには代表幹事に長く就き、いただいた学恩に、ささやかながらだが、お応えすることができたと思っている。


 しかしながら、改めて思うのは、大学院へ進学するには、多大な費用が要るということであり、それが上首尾につながるかわからないということ。


 そして、今も思うが、とりわけ、東京に出てきて下宿しているか、都心の親元自宅か、あるいは、社会階層調査ではわからないとされている資産のあるセレブ子女かどうかという決定的な格差問題が、研究者養成の環境には存在し続けているということだ。この格差は、私のこの時代とは比べものにならぬほど拡大してしまっている。
経済基盤を確立して、秋元先生の特論に復帰。


 『ケルン社会学・社会心理学旬報』に寄稿されたライナー・レプシウスの「戦後社会学の展開」(”Die Entwicklung der Soziologie nach dem zweiten Weltkrieg 1945 bis 1967”, Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie, Sonderheft 21.)と、ヘルムート・シェルスキーの反論 「ドイツ連邦社会学の生成史に寄せて」(“Zur Entstehungsgeschichte der Bundesdeutschen Soziologie -Ein Brief an Reiner Lepsius”, KZfSS, 3.Heft, 32 Jg., 1980.)を精読していく戦後ドイツ社会学史であった。


 これらは西ドイツ国内で議論となり、別冊に多くの論者が寄稿し、ヴェーバー以後のドイツ語圏の社会学史を通覧することができ、有り難かった。


 ウィーン遊学中、丹下先生が、武蔵野社会研究所を設立され、その末席に座らせていただき、機関紙『社会研究誌』に寄稿させてもらった。その創刊号に載せていただいたエッセイ「悲しき実証主義」は、今に至るまでの関心、日本で外国の社会理論の学派を紹介することが社会学かという問いである。


 修士論文は、「システムとディスクール ―経済学の社会学的基礎づけ」という題目で、そもそもの主題、一般理論を構築していった経済学と、それをめざすも中途半端なままの社会学との関係を、パーソンズ、ハーバマスを文献の軸に据えて展開するものであった。


 帰国したとき、すでに秋元先生は大学院のゼミをたたんでおられたので、新しくゼミを開かれた濱口晴彦先生のところに仮住まいのような形で置かせてもらった。


 修士修了から博士課程に進むとき、私の関心ではということで、佐藤慶幸先生のゼミに入ることになった。


 しかしながら、ヴェーバー、パーソンズという理論社会学の課題への研究というよりは、先生の関心が、ボランタリー・アソシエーションの経験的調査実施に向いており、博士課程3年間、そして助手2年間は、学生サークルの研究に始まり、東京から神奈川、埼玉にかけて展開している生活クラブ生活協同組合についての調査研究に従事することになった。


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 当時、SPSSも大型電子計算機で利用する時代だったが、プログラムにはじまり、たいへん多くのことを自学自習していくことができたのは、経験的調査を実際に繰り返し行う機会に恵まれたことがたいへん大きく、これは佐藤先生に大いに感謝している。


 博士課程3年から助手2年間、生活クラブ生協の経験的研究に従事するのが主要なことであったが、佐藤先生の演習では、刊行まもなくのハーバマス『コミュニケーション的行為の理論』(Jürgen Habermas, Theorie des kommunikativen Handelns, 1981.)を輪読していった。


 このパーソンズの章のひとつは、上述したウィーン、ショッテン・リンクで出会ったシュルフター編著に収められた、パーソンズのシンボリック・メディア論についての建設的提案であったが、ほぼそのまま収められていた。


 いわゆる「生活世界の植民地化」と、それへの理論戦略として、「貨幣」「権力」というメディアに対して、パーソンズは素朴に「影響力」「価値委託」というメディアを考えていたが、ハーバマスは、これは言語コミュニケーションであり、討議であり合意プロセスであるという提案をしていた。


 これに基づいて、そしてまたハーバマスの教授資格論文であった『公共性の構造転換」(Jürgen Habermas, Strukturwandel der Öffentlichkeit, 1962.)でも、冒頭、構造―機能主義について批判的なコメントを加えているが、「公共性」という概念を明瞭にして、討議と合意のプロセスが市民社会の前提であるというロジックはパーソンズにはないが、理論設定は、パーソンズの構造−機能主義と同じだと感じていた。

 


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◇「消えゆく前に ―ウィーンの森の物語」から◇

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