―社会理論と経験的社会研究
タルコット・パーソンズ後 50 年
あるいは、ある大学教員人
4.ドイツ語圏への関心
早稲田大学で学んで、有難かったと思うことは、丹下隆一先生との出会いとともに、語学教育研究所のドイツ語入門を子安美知子先生に教わったことである。
テープレコーダーの時代であったが、なるほど語学とはそういうふうに学ぶのだと大きな体験をした。そして、夏の合宿、そこで生涯の友人となる人に出会った。フレール・ヴェスさん、当時、東京大学に留学中で、ネイティブスピーカーのアルバイトで合宿に参加されていた。
宗教社会学がテーマで、石川県能登半島合鹿をフィールドに、浄土真宗とその宗教意識調査を、博士論文にと進められていた。今ひとり、同級のマンフレート・リンクホーファーさん(当時、大阪大学大学院留学、後に大阪産業大学教授)にも出会い、被差別部落についてフィールド調査をされているのを知った。
社会科学は、理論と経験的研究を同時にやっていることが必須。富永先生の社会階層・社会移動研究もまさにそういうことだと納得した。
卒業論文を執筆していた、1978年秋は、ヴェスさんを誘って、ドイツ語クラスの仲間たちと追分セミナーハウス(現・軽井沢セミナーハウス)で自主ゼミ合宿を催した。卒業後ソニー入社、激動の時代、長くニューヨーク駐在をしていた清水宏之介、みすず書房社長となる守田省吾ら、たいへん優れた人たちと学ぶ場を作った。
第二次石油ショックであり、就職解禁は、4年生の11月であった。父が、転勤族のサラリーマンであったこともあり、たいへん偉くなっていったが、違う道をと思い、大学院に進学しようと決めていた。
と同時に、当初は、パーソンズでありアメリカへと計画をしていたが、にわかにドイツ語圏に、とりわけヴェスさんのおられるウィーンへという思いが強くなった。
ちょうど、1977年秋、日本赤軍による日本航空機ハイジャック事件が起こる。福田赳夫内閣は、命は地球より重いとし、犯人の要求を呑み国内に収監されているテロリストを解放し16億円の身代金も渡すという事件が起こった。
そしてその2週間後、ルフトハンザ・ドイツ航空機ハイジャックという類似の事件が発生。ヘルムート・シュミット首相は、緻密な計画を立てつつ、時間稼ぎをしながら、ソマリアのモガジシオ空港で、GSG9という特殊部隊を投入し、テロリスト全員射殺、乗員乗客無事救出という離れ技を行った。ニッポンとドイツは、何が違うのかという問いが涌いてきた。
また、1978年オーストリアは、国民投票で、建設中のツヴェンテンドルフ原子力発電所の建設を中止し原子力発電を使用しない政策を決定した。この出来事も、新鮮であった。
1979年1月私学会館で、タルコット・パーソンズの講演会が催された。その前年、関西学院大学に招聘され講義をされていたパーソンズ、その来日を機会に東京でも催されたのである。富永健一先生が司会をされ、目黒依子先生が通訳をされ、質問者に直井優先生が立たれ、なるほどと感じ入ったのであった。『思想』(岩波書店 3月号)には、パーソンズと富永先生の対談が掲載されており、これも熟読した。
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