フィールドとアーカイブ

―社会理論と経験的社会研究
タルコット・パーソンズ後 50 年
あるいは、ある大学教員人生

22.『ヴェーバー後、百年』
  2023年10月末、『ヴェーバー後、百年  ―社会理論の航跡 ウィーン、東京、ニューヨーク、コンスタンツ』(東信堂)を出版した。これは、私の研究のまとめである。


 『アルフレート・シュッツ ―社会科学の自由主義的転換の構想とその時代』(新評論 1995年)以後、シュッツについての研究で進められてきた成果、ひとつは、1997年から始まったドイツ語版全集編纂の成果、今ひとつは、1999年から、繰り返し開かれてきたシュッツをめぐる国際会議での私の報告、そこから論文となった諸成果を踏まえ、これからの社会がどのようになっていくかをめぐり論じた。


 「face-to-face」のみならず、新たに出現した「peer-to-peer」の展開、「wired brain」と言語、意識の関係が、シュッツの功績である社会的諸世界、すなわち、直接世界、同時世界、先行世界、後続世界に、どのように関連していくかを問題とした。


 併せて、これまで行なってきた経験的社会研究の主題「普通の主婦」「緑」「民主政」「貨幣」などの諸問題を、通奏低音にして、間接に、あるいは暗喩として触れた。


 例えば、2007年ウィーンで報告したものをベースにしているが、第5章の尾高朝雄論、あるいは2022年日本社会学史学会で報告したものだが、第6章の北米におけるプロテスタンティズムとパーソンズの社会観、2023年やはり日本社会学史学会で報告したが、第10章のルーマンと意識哲学を収めた。


 第7および8章には、フッサールとシュッツの現象学の異同について書き下ろした。さらに第9章では、ハーバマスによる意識哲学の言語論的転換の前提について論じた。


 「生活世界」と、わかったように言われる、フッサール、シュッツ、ハーバマス、ルーマンにおける相違を明瞭にし、意識、無意識に口にする「社会」「日常」について考察していった。


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 社会理論について、結論があるとすれば、1968年ハーバマス『認識と関心』での、認識批判の徹底をつうじて類的存在が剥き出しになり、それにより社会理論が可能となるというネガティヴィズム、批判理論ということ、これに尽きるだろう。


 言い換えれば、連帯、共生、相互理解などのフレーズを肯定的に羅列するポジティビズム、実証主義は採用しないということになる。「社会」「日常」は、それほど孤立、排除、相互不信がリアルなはずである。


 経験的社会研究において得られた知見、例えば「普通の」が冠せられた「主婦」は、どう普通であったか、「300万得票した都知事」は民主主義の成果か、長期銀行制度は誰のためにあったか、1920年代、金融化に成功した寄生地主、戦争成金層の維持存続のためかなど、その存立を問わねばなるまい。


 それをつうじて、それゆえに社会理論は、つねに経験的社会調査と表裏一体で、フィールドとともに、理論そのものを問うリソースをアーカイブに問い求めるということである。


 アーカイブへのポジションは、データの確認はもちろんだが、そのデータ自体の成立を問い続けることも不可欠である。


 さらに言えば、1920年代の、例えば細民調査も重要だが、なぜに『細雪』のような世界もありえたか。投票行動調査も重要だが、理念、思想、理論なく、金だけの世襲政治屋が、なぜ居続けるのか。


 人の収入、所得を調査できるが、なぜに資産格差は問題とならぬのか。それにもかかわらず、なぜにかつての日本は平等だったなどと言ってしまえるのかなどということになるか。

 

 


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◇「消えゆく前に ―ウィーンの森の物語」から◇

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