―社会理論と経験的社会研究
タルコット・パーソンズ後 50 年
あるいは、ある大学教員人生
14.ジョイント・セミナー
2002年3月から翌年3月まで在外研究でウィーンに滞在した。すでに触れたハイエクの集中研究のためである。ウィーン大学図書館、ザルツブルク大学図書館、フライブルクのヴァルター・オイケン研究所、さらにはアメリカ、スタンフォード大学フーバー研究所ハイエク・ペーパーズから未公表の文書の複写を取り寄せつつ、研究を進めた。
このときも、2002年夏から1年お世話になったライニンガー夫妻にお願いして住まいを貸していただいた。この時は息子も一緒で、ウィーン日本人学校で1年過ごした。
そんな時、ウィーン大学の政治学の学生からメールをいただいた。ウィーン大学政治学研究室は、毎年海外の大学と学生ジョイント・セミナーをやっている。ヨーロッパはほぼ周り、昨年は中国。今年は日本を選び、パートナーとなってくれる大学の先生を探しているという話であった。
偶然にも私がウイーンにいるのに驚いた彼は企画者に紹介するというので、ただちにお相手に会いに行った。オーストリア社会・女性・世代省のビルギット・クラウサーさんだった。政治学研究室で講師をされていて、ペーター・ゲーリッヒ教授が主宰するゼミと、ジョイントできないかという話であった。たいへん積極的な人で、それ以来、人生の友となった。
2004年6月ウィーン大学から学生たちがやってきた。10日間ジョイント活動をした。私は、大学院生、学部生混成のチームを編成し対応したが、皆、能力高く、有意義な交流ができた。
鎌倉に遠足し、月曜から金曜まで昼間は報告と議論、国会議事堂参議院内見学、靖国神社、東京タワーを訪れ、夕方から東京観光の毎日、週末、京都を周り関西空港から帰国していった。
ゲーリッヒ教授から、来年は日本から来てくださいと誘われて、2004年9月、私たちがウィーンを訪問した。到着翌日、シュネーベルクに登り、月曜から金曜まで報告と議論、そしてカール・マルクス・ホフ、国会議事堂、緑の党本部などを訪問、党首とも議論をし、さらにツヴェンテンドルフ原発跡への遠足など、楽しく有意義な10日間を過ごすことができた。
2年にわたるゼミ交流で、学生たちの間にも深い絆ができた。
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これに続いて、エルフルト大学のラインハルト・ツェルナー先生(現・ボン大学教授)が企画された「International Study Program」という同様のジョイント・セミナーに、高橋透先生(ドイツ文学専修、後に表現・芸術系、現代人間論系)と参加した。
エルフルト、ワイマール、韓国の漢陽、京畿、横浜国立と早稲田から、それぞれ学生が参加した。「記憶」「シティ・スケイプ」「国境」などをテーマに、社会科学、文学、歴史、建築の教員、学生が参加した。とくに建築という、日本では「理系」とされる領域との複合であり、学生交流、教員交流、そして学問の交流に大いに意味があった。
2006年5月ワイマール大学、9月早稲田大学、10月ソウル、漢陽大学、2007年3月横浜国立大学、8月ベルリン日独センター、エルフルト大学、10月ソウル、京畿大学、2008年3月漢陽大学と早稲田大学で、各回10日のハードスケジュールでジョイント・セミナーを実施した。
テーマをめぐる事前文献講読と報告、討議、ザクセンハウゼン強制収容所跡、板門店、ポーランド国境の町ゲルリッツなど、それぞれの地でさまざまな史跡、建築などを見学し、たいへん意味のあるもので、ここでの出会い交流も、私自身のみならず、参加学生たちに有意義な絆を今に至るまで作り上げた。
当時、第一、第二文学部体制終了、文化構想学部、文学部新設の設計途中で、教務担当教務主任に就いていて、文化構想学部に創設されるゼミ制度に、経験したジョイントを組み合わすことができないか、私が担当することになるゼミでできないか、大学院の演習をこれにジョイントし制度化できないかなど模索した。
問題は、費用、そして興味ある学生、大学院生は確実にいるが限られていること、そして学部3年生後期には、就職活動に心奪われること、大学院生はとくに経済的に逼迫しているなど難しい問題があった。
1990年代前半から始まった旧帝国大学の大学院化により、また海外の大学院への道も広がり、私立大学の学費のコスト・パフォーマンスの悪さから大学院への志願者が限られていくことになった。
ドイツ語、フランス語が忌避され、統計学、プログラミングも敬遠され、社会理論を欠いた史料研究を中心にしていくなら、すでに日本史学の明治以降、昭和日本をめぐる研究が高い成果を出しているのだから、社会学者が顰みに倣っていく傾向に大いに疑問があった。社会学の理論や方法が消えていったという問いである。
変質して蛸壺に入っていく社会学とは訣別し、大学院担当を降り、ツェルナー先生がさらに企画し、DAAD(ドイツ学術振興会)で採択されたプログラムでのジョイントに参加したいと考えたが、この企画は、残念ながら教授会で認められなかった。
残念であったが、2010年秋、ちょうど「文学部120周年記念行事」が催され、その企画のひとつ、アジア史の李成市先生(早稲田大学教授)がコーディネーターとなられた「〈東アジア〉とは何か ―共生のための地域形成への模索」において、ツェルナー先生、張寅性先生(ソウル大学教授)、劉傑先生(早稲田大学教授)と並んで、専門違いの私も登壇させていただいた。
ツェルナー先生の講演を踏まえ、お話をさせていただいた〔『文学学術院創設120周年記念行事の記録 FUTURE UNDER CONSTRUCTION ―交差する知― 文化の構想力』(文学学術院 2011年3月)所収〕。
新たに始まる文化構想学部社会構築論系共生社会論ゼミ担当ということで、私が呼ばれたということもあるのだろう。ただ「共生」という言葉は、国立大学、文科省風のそれのようであり、始まるゼミの基本テーマは、”Can We Live Together?” と提示していた。
人々が、それほど巧く「共に生きていくこと」ができるのかという問いがつねにある。企画テーマである「東アジア」ではとりわけ難しいとも言える問いであった。
しかしながら、ツェルナー先生というドイツ人が参加することで、さらにドイツの学生たちが参加することで、東アジアにおける、中国と日本、韓国と日本という二国関係にして「過去」を問うというのとは違う次元が拓けてくる。
すなわち同様に世界大戦を引き起こしたドイツとその戦後の問題を考えることで、戦争と戦後についてドイツと日本の違いも重ねながら、また対立的な議論ではなく、複眼的な討議が可能になるという、ジョイント・セミナーの理念をまとめることができたように思う。
とりわけドイツ連邦大統領であり、2005年に早稲田大学が名誉博士として顕彰したリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーによる、1985年の有名な演説 「荒れ野の40年」を、あるいは早稲田大学正門「教旨」にある「学の独立」「学の活用」「模範国民の造就」について、第14代総長奥島孝康先生は、その総長就任挨拶で「模範国民」は「世界市民」と読むとされたことなどを引きながら、東アジアへのわれわれの関わりをコメントした。
ジョイント・セミナーを制度化することはできなかったが、ちょうどこのシンポジウムのとき、翌2012年度のゼミ志望者を募っていたら、「私は韓国と日本の架け橋になりたい」と志願書に書いてきた韓国からの留学生がおられた。
ゼミ論文では、とりわけ小泉純一郎政権の意味について書かれ、持ち前の器用さもあって、大学院日本語教育研究科に進まれ修士、博士学位を取得し、現在は都内の私立大学で教壇に立たれている。
メディア・アーキテクトのクリス・デーネさん(ワイマール大学建築学助手、後にフランクフルト大学講師)は、日本に大いに興味を持たれ、Chris Dähne, Die Stadtsinfonien der 1920er Jahre. Architektur zwischen Film, Fotografie und Literatur, Transcript 2013.として出版される学位論文制作のために、2012年に早稲田大学に訪問学者として滞在された。
国立近代美術館フィルムセンターで見つけられた「復興帝都のシンフォニー」、これを複写してドイツでも公開できないかと奔走され、フィルムセンターとフランクフルトのフィルム・アーカイブとの交換協定締結まで努力され、ご本人の研究のみならず、大きな文化交流の道を開かれたのも、そもそもはジョイント・セミナーへの参加ということにあった。
今ひとり、漢陽大学助手で、このジョイント・セミナーに参加されたテジョン・リー(Taejeong Lee)さんも、2013年秋学期、国際交流基金により、早稲田大学に訪問学者として滞在、フィールド調査を実施された。
その間、これまで私の調査実習、卒業論文で得た貴重な人たち、大手新聞社論説委員、国立大学、あるいは私立大学で教壇に立たれている先生たちに講演と質疑、討論の場を作っていただき、懇親会を含め、現役ゼミ学生たちとの交流会などを数回行うことができた。
かつての調査実習をつうじてつながるのとは、また異なったつながり方であり、意味あるものだったと考えている。
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