フィールドとアーカイブ

―社会理論と経験的社会研究
タルコット・パーソンズ後 50 年
あるいは、ある大学教員人生

  

6.ウィーン遊学
  修士1年を終え、ウィーンへ留学ということで準備していた。
海外で生活どころか、飛行機にも乗ったことがなかった私は、どんな生活となるかも、あまり想像せず、ただただ素朴に専門のことしか考えていなかった。


  一橋大学の良知力先生のお仕事を知りながら、三月革命以降のオーストリア、そして20世紀初頭から展開するオーストリア・マルクス主義に大いに関心が向いた。


  これにより、ハーバマスとマルクス主義、フランクフルト学派とネオ・マルクス主義ということも主題とすることができ、さらに、そこでのオットー・ノイラート、ポール・ラザースフェルトの位置も興味深いと無邪気に考えていた。 
都立家政の下宿を片付け、両親と弟の住む武庫之荘に戻り、母親の車で荷物を運んでもらい伊丹空港へ。何とも有難いことに丹下先生が見送りにおいでになっていた。

  伊丹空港から成田空港を経由して、アンカレッジ、ハンブルク、シュツットガルトを経てウィーンに着いた。ヴェスさんが、優しくもシュヴェヒャート空港に迎えに来てくださっていた。


  だが、ある程度までドイツ語は勉強をしてきたものの、もともと才能がないということでもあり、ウィーン大学での授業は、まさに聞いているだけ、いや座っているだけであった。


  ドイツ語をさらに学びつつ、フレールさん、ポールさんにいろいろ教えてもらいつつ、まだ寒い3月、9区ガルニソン・ガッセ近く、食品店を開店準備していた夫妻と親しくなった。


  フランクは、レバノン出身でウィーン経済大学で学位を得て、これから自立の準備。つれあいアニーは、アルザー・シュトラーセにあったウィーン大学社会学研究室で労働社会学を修め、そこで仕事をされていた。


  大学の学業は全然だったが、「フランキー」開店準備、壁の塗装はじめ、私が少し器用なところもあり、いろいろ気に入っていただき、フランクの店にいることしばしばであった。ふたりから、それはそれは、たくさんのことを教えていただいた。


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  秋も深まった頃、フランクの店によくやってきたクルトという.オーストリア国立銀行の行員が、日本のことを聞きたいと、飲みに連れて行ってもらうことになった。


  ショッテン・ガッセ裏の居酒屋で始まり、山本五十六、グーデリアン将軍の話をほろ酔いのおじさんから聞かされ、グラーベンのパブに連れて行かれ、踊り子たちがフィリピン人ばかりに驚いた。そして、映画「第三の男」にも出てくる「カサノバ」クラブに入ることになった。


  私の隣に座って話してくれた女性は、ルーマニア、ブラショフから来たと教えてくれた。ジーヴェン・ビュルゲンは、ドイツ語の通じるところと知っていたことなどがあり、にわかに意気投合。


  クルトに、ここは高いから気をつけろと言われ、彼は帰り、私はもう少し残ったが、まもなく、もう一杯飲むか、帰るかという選択を迫られ、帰宅となった。外に出て、朝3時頃だった。これが、私のキャバレー、最初で最後となった。


  ウィーンでの住まいは、ヴェスさんの友人ベルンハルトが紹介してくれたところで、8区アルベルト・ガッセにお住まいの毛皮職人のお宅、そこに間借りさせていただいた。女ご主人は、ドイツ人でウィーン訛りがなかった。
たまたま近くにあった、映画館「Albert Kino」、そしてカフェ「Hummel」は、よく訪れる場所となった。そして結果、いろいろな本屋にはよく通うことになった。


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  そんなある日、ショッテン・リンクにあった大きな書店で、シュルフター編著『行動・行為・システム』(Wolfgang Schluchter, Verhalten, Handeln und System -Talcott Parsons’ Beitrag zur Entwicklung der Sozialwissenschaften, Suhrkamp 1980.)という、パーソンズ追悼論文集を見出した。


  ちょうど、前年、大学院に入って間もない5月、パーソンズはミュンヘンで客死されていた。追悼論文集を開いて、パーソンズ自身、学位を取得したハイデルベルクで名誉博士学位を授与され、その後のシンポジウムで、シュルフター、ハーバマス、ルーマンが登壇したことを知り、なるほどと思ったのであった。


  そんなふうな過ごし方で、1年ウィーンにいることができ、そこを拠点に、西ドイツ国内、チェコスロヴァキア、プラハを経て東ドイツ、ドレスデン、ライプツィヒ、東ベルリンへと、今から思うと無謀にも感じるが、訪れてみたいと思っていたところへ、日々、ヴィザを更新しながら、知らぬ世界を冒険することができた。


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  留学には、まったくもってほど遠い遊学であったのは確かだ。そんな1年を許容してくれた父母には今さらながら心から感謝せねばならない。そしてフランク、アニー、クルト、リンハルト夫人、ベルンハルト、 そしてポールとフレールには、感謝してもしきれない。

 


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◇「消えゆく前に ―ウィーンの森の物語」から◇

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