私の大学院研究指導を受ける前に、
まず、私自身の業績について学んで欲しい。大学院のとりわけ博士課程の研究指導は、研究者というひとりの人格的内容なしには考えることができないものである。大学院の入学試験に合格したから研究者になれるわけではない。質の高い修士論文を書くには、それだけの能力が必要であるし、博士論文となるとさらに能力が必要である。私は、入学者全員が修士号取得、博士号取得することができるとは思っていない。ここが、入学者の多くが卒業することができる学部とはまったく違う点である。 まずは、このHPにある「研究」の項目をよくご覧になる必要がある。
そして興味があるのであれば、以下をよく読んで欲しい。
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日本の大学も、世界の例にもれず、いやそれ以上に急速に変化している。私の勤務する早稲田大学文学学術院も、1990年代には「情報化」、そしてそれを梃子に「COE」の拠点ともなり、いわゆる役職をわたる教員が跋扈する拠点ともなっていった。
それはそれとして、研究学部をめざし大学院学部一貫ということで成った「学術院」という組織にしては、『大学点検評価報告書』を見ても、早稲田大学文学学術院の博士号取得率60%に達していない。博士課程の研究指導や博士論文の審査も、自らは博士号を持っていないにもかかわらず、堂々と行っていけるのがここである。
しかしながら、大学は「急速に変化しており」、そのうち研究は限られたところでだけ行われるようになっていくであろう。下の図のように、1992年の大学の「自由化」以来、明らかに状況は変化し続けている。研究者をめざし博士論文を仕上げるよりは、社会学においては「社会調査士」のような怪しげな資格を取得して、社会調査がきわめて難しい世の中になったにもかかわらず、「調査実習」と言って、その真似事で済ませ、数学的素養怪しく「社会統計学」を講じることで「社会学者」でいられる。「文学部」の歴史と伝統のもとにある社会学ではあったが、「報告書」の「かきかた教室」のような「調査実習」、その文章の貧困さには驚愕する。実習学生のではなく、教える側の文章力である。
中学・高校の教員の実力が二極分化していったのと同様に、大学教授のそれはもっと分化していくであろう。「ゼミ」は癒しの場、大学教授の一部はすでに「大学教師」であり、そもそも博士の学位など持っていなくてもよいし、外国に向けて論文を発信しようなどとは思いもしない。「忙しい」を標語にして、調査の真似事と怪しげなハウ・ツー統計学、そして「報告書」の「かきかた教室」で仕事をしていれば、「大学教授」でいられるのである。
そういう「大学教員」をめざすのであれば、私のところに来るのはやめたほうがよい。「研究者」、つねに新しい発見を発信し続ける研究者になりたいのであれば歓迎するが、その道は厳しい。そして「社会学」である以上、「社会とは何か?」という問いにいつも向いている必要がある。本を読むとしても、また調査をするとしても、その問いへの答えを得ようとするゆえであることは知って欲しい。つまらぬ「査読付き」なる論文を書くためではない。
大学院で勉強をするからには、これまでに留学をしてきたか、これから留学する具体的な計画とそのための活動が必要である。知ったふうに、ヴィトゲンシュタインを読んだとか、ハーバマスを批判するとか、固有名詞の虚仮威しと「社会調査士」資格に汲々としている人は、私の研究指導は一番向いていない。ものすごい量の本・論文をどんどん読みこなして、ノートを作り、考え、論文を書き、仲間をたくさん作り、議論をして活動していくことが必要である。ひとりで本を読むのが好きなだけ、誰も読まない雑誌に投稿論文を書いて片仮名の固有名詞を振り回し、満足げに片仮名固有名詞を「批判」をするという程度の目標だとしたら、私のところへは来ないほうがよい。
理論研究の論文は、英語、ドイツ語、フランス語で書くことを基本とし、日本語で書くとしたら、それの存在意義を十分に示すだけの思想史のバックグラウンドも展開する必要があり、そのためには30万字程度の単著を実現する必要がある。そしてつねに、社会調査は行い続ける必要がある。調査の業績が必要だから「調査をやる」というような人は来ないで欲しい。
これらなしには、本当の研究者としての自立は無理である。博士課程の研究指導には、この覚悟がある人だけを歓迎するし、将来を考えれば、これは正しく親切な忠告だと考えている。

この図が示すように、1992年以来、大学進学者数は、過去の社会とは明らかに違ったふうに増加している。18歳人口が減少しているのにである。大学は、過去の「大学」ではもうない。大学教授、その名称は、今もそのままだが、その中身は驚くほど多様である。